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平沢勝栄議員の古里にある岐阜県白川村の生家は、今は重要文化財としてJR高山線下呂駅近くに保存されているとのことです。ご興味がおありの方は ご旅行の際に足を運ばれてみてはいかがだろう。


平沢勝栄さんは平和で安全な世界、北東アジアそして日本をつくるため、拉致問題をはじめミサイル・核問題の解決に全力を上げ、近隣諸国との間で、日本の国益を踏まえた間違いのない関係を再構築していきます。

平沢の兄貴

2012年11月26日
平沢勝栄さんは当時民主党の河村たかし氏(現在の減税日本代表)とよく一緒にテレビにご出演されており、河村氏から「平沢の兄貴」と呼ばれていたとのことです。平沢勝栄さんはそれだけたくさんの方に親しまれる存在であったことが伺えます。

平沢勝栄議員は自公連立政権に一貫して否定的であるため公明党・創価学会からの支援を受けにくい事情があるにもかかわらず、2009年総選挙を除き対立候補に比例復活を許していないのです。

元警察官僚である平沢勝栄氏は、当時警察庁では外事警察が長く、英語が非常に堪能であられるとのことです。平沢勝栄氏のかつての上司である後藤田正晴は「平沢は英語は上手いぞ。日本語より上手い。」と言わせたほどであり、部下としての平沢に信頼をおいていたという。

平沢勝栄さんは学生時代に、当時小学生であった安倍晋三(第25代自由民主党総裁)の家庭教師を務められたそうです。補足ですが家庭教師とは主に小学生から高校生に対し家庭で勉強を教える私教師のことです。

平沢勝栄議員は2008年から、自民党のマルチ商法疑惑追及プロジェクトチームの座長を務めておられるようです。プロジェクトチーム設置の目的は、マルチ商法の実態および被害救済のあり方並びにマルチ商法業界と国会議員の関係のあり方を調査・把握することを目的としている。

北朝鮮による日本人拉致問題に関し、拉致議連には草創期から関わっておられました。2004年4月、山崎拓が極秘に訪中し、拉致問題について北朝鮮高官を相手に直接交渉した際、山崎氏に同行されたようです。

平沢勝栄氏は自民党所属議員であり東京に選挙区を持ちながら自公連立政権には極めて否定的であった。第42回衆議院議員総選挙に際しては、選挙戦中から盛んに公明党を批判し、公明党も平沢勝栄氏を落選させるべく猛烈な落選運動を展開したが、両者の「与党対決」は平沢勝栄氏が勝利した。

平沢勝栄さんの政策・主張といたしましては、外国人労働者の日本への受け入れや永住資格の付与を主張し、1000万人の移民受け入れを主張した自民党の外国人材交流推進議員連盟の提言に賛成されました。

平沢勝栄議員2009年の第45回衆議院議員総選挙では、自民党に猛烈な逆風が吹き荒れる中、東京17区で5選を果たす。しかし民主党の早川久美子に比例復活を許す(東京17区で次点以下の候補が比例復活するのは初めて)。東京都25の小選挙区で東京17区は唯一民主党の候補が敗北した選挙区。

平沢勝栄議員の2008年の活動と致しましては「パチンコ業界の位置づけを真剣に考えていく」ために、自民党内に「遊技業等の営業の健全化に関するプロジェクト会議」を立ち上げられました。ゲームセンターを含む遊技業界の現状や必要性などを様々な観点から調査・検討し話し合う場となるものです。

平沢勝栄議員は2007年12月、日朝国交正常化を目指す議員連盟「自民党朝鮮半島問題小委員会」を立ち上げ、同会の幹事に就任されました。自民党朝鮮半島問題小委員会とは、政府の対北朝鮮外交をバックアップするために結成されたものです。

平沢勝栄さんは2006年9月、安倍内閣で内閣府副大臣に就任。翌2007年の第21回参議院議員通常選挙では、東京都選挙区から出馬した自民党新人の丸川珠代の選挙対策本部長を務め、丸川の当選に貢献しました。ただし、自民党への逆風により、丸川に代わり保坂三蔵が落選しました。

堀江メール問題

2012年11月12日
平沢勝栄さんは2006年2月、民主党の永田寿康の国会質疑をきっかけに起こった堀江メール問題では、問題のメールを入手し、メールの正当性を否定するコメントをマスコミに発表しました(事実、そのメールは偽物であり、永田は議員辞職、前原誠司民主党代表は辞任に追い込まれた)。

第44回衆議院議員総選挙では、東京17区で再度錦織を大差で破り、4選。総選挙後、北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員長に就任されました。

平沢勝栄さんは2003年自由民主党総裁選挙において、高村正彦の推薦人に名を連ねる。同年の第43回衆議院議員総選挙で、東京17区で民主党の錦織淳を破り、3選。翌2004年、山崎派に入会した。

第42回衆議院議員総選挙では東京17区から同じ連立与党所属の自民党の平沢、公明党の山口那津男が出馬し与党対決が全国的に注目を集めたが、再度山口を下し再選。当選後平成研究会退会。2001年、第1次小泉内閣で防衛庁長官政務官、2003年の第1次小泉再改造内閣で総務大臣政務官に就任。

平沢勝栄さんは1996年第41回衆議院議員総選挙に東京都第17区から自由民主党公認で出馬し新進党(旧公明党系)の山口那津男を破り初当選。出馬の際、面識のあった公明代表の藤井富雄から選挙区の変更か比例区への転出を要求されたが拒否。後藤田正晴の勧めもあり初当選後は平成研究会に所属。

平沢勝栄さんはその後、防犯警察に転じ、刑事局保安部保安課長、警視庁防犯部長を歴任。岡山県警察本部長、警察庁長官官房審議官、防衛庁長官官房防衛審議官、内閣官房長官秘書官(当時の内閣官房長官は後藤田正晴)を歴任することとなります。

平沢勝栄さんは警察庁に入庁後15年ほどは、警備局外事課・米国デューク大学研修(修士課程修了)・福岡県警察本部警備部外事課長・警備局公安第三課兼外事課長補佐(国際テロ対策課の前身)・外務省在イギリス日本大使館一等書記官などを経験し、外事警察を歩まれ、あさま山荘事件にも出動された。

平沢勝栄さんは岐阜県の白川村生まれだそうです。のちに父親の仕事の都合により福島県に転居。福島県立福島高等学校、東京大学法学部卒業(同級生に白川勝彦、早川忠孝)し、1968年、東大法学部を卒業し警察庁に入庁。同期に佐藤英彦、石川重明、兼元俊徳(内閣情報調査室長)らがいるんですよ。

日本の政治家「平沢勝栄」さんは自由民主党所属の衆議院議員です。テレビやラジオなどのメディアに積極的にご出演されている議員さんですのでご存じの方も多いはず。そんな平沢勝栄さんのご活躍をいち早くお届けできればと思い立ち上げたページです。